浦島太郎の東北旅日記 15年ぶりの地元をMINIで旅してみたよ

東京勤務・千葉県習志野市民が15年ぶりに地元仙台に帰りました。そんな浦島太郎が久々の東北をMINIで回った旅を書いてます。

はまなす海洋館 みやぎ旅日記1 番外編 東京で体験した『東日本大震災』について

はまなす海洋館』へ宿泊した時の話です。

 

チェックインの前に、スマホの地図で色々と検索をし、地図上にある『気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館』という場所を見つけたので行って見ました。

 

震災後、こうやった形で学校を残した所が多いのですね。

僕がよく行く荒浜小学校もその様になっていました。

 

 

 

この浦島太郎は震災時は東京にいましたので、東京で被災した形になります。

今でも光景を覚えています。

 

 

 

震災の話を書きますので、ご覧になりたくない方は次のブログへお進みください。

 

 

 

この浦島太郎が東京で体験した東日本大震災を書きますが、あまり東北の人は東京側の様子を聞く機会ないと思うんですよね。

 

 

当時、我々の業種は第二週の木曜か金曜日は『全体会議』である事が多く、会社の支店長クラスは東京に集結している時になります。

 

会議の次の日だったと思います。

地震がきました。

東京の人達はみんなびっくりしてすぐに机の下に隠れました。

東京は地震が少ないですからね。

 

しかし、仙台で地震慣れしている僕と、北海道出身の上司は最初は『お、揺れが強いな』などと話ならがら、机に座っていました。

その時は頬杖をついていたと思います。

 

しかし、揺れが続き、かつ揺れではなく、座っている椅子が『ぼっこん』と上に盛り上がるように波打ったのです。

そんなことがありますか?

地面が波を打って盛り上がる感触がありました。

僕もそれには驚き、目の前の上司もさすがに驚いた顔をしてただ事じゃないぞという表情に変わりました。

 

ドン!と縦に振れるのではなく、『ぼっっこん』と椅子の下の地盤が盛り上がるような形になったかと思うと、さらにすさまじい揺れがきました。

それはもう高層のビルにいますから、すさまじい揺れです。

 

これはもうただ事じゃないと行動に移しました。

まずは僕のグループの女の子二人が無事なのかを確かめて二人に怪我も無く大丈夫な状態と確かめると、すぐに情報収集。

 

社内はごった返しです。

社内を点検しまわる者、支店に電話をかける者、テレビに情報収集に行く者。

土日納入の客先もありますから、出荷が出来るのか客先は大丈夫なのか、受入出来るのか、出荷できなくても大丈夫なのか、搬入車両が行けないという事態になっても大丈夫なのか。

色々知らべなくてはならないのですが、電話が全くつながらないんです。

と思うと、都内がダメなのになぜか神奈川地区にはつながったりとか。

とにかくめちゃくちゃでした。

 

それからだんだんと被災地は宮城な事がわかります。

 

また関東でも千葉のコンビナートで爆発事故が起きているなどの情報が飛びました。

最初は誤報でJFEが爆発したと流れてました。

しかし実際はコスモ石油で、関東側ですら情報が錯綜していたんだろうと思います。

 

しばらくして落ち着いた頃、外を見ると一斉に人が歩き始めているのが分かりました。

非常事態なのでもう帰っているんですね。

こういう部分は大手はしっかり体制が敷かれていますね。

 

しかし、当時の私の会社は女性すら帰らせませんでした。

東京は一時間とかかけて他県から通う人間が多いので、台風などでも早めに女性だけは帰らせるものです。

しかしそんな気配はなく。

 

しっかり定時まで居させられたものの、もうその頃には電車は当然動いている訳がありません。

千葉に住んでいた僕は当然帰れず、どうするかと思っていたら、浅草に実家がある人が社内にいて、その人の実家はお金持ちで部屋もたくさんあるとの事だったので、『うちに来ていいよ』という事で、やっぱり帰れなくなっている会社の女性5、6人と一緒に泊まらせてもらいました。

他にはとにかく千葉組は千葉組で固まって会社を出ていくグループもあったり、様々でした。

 

携帯で仙台の実家に電話をしてもつながらず、仙台支店に電話をしてもつながらず。

弟や妹、付き合っていた仙台の彼女もじいちゃん家もすべてつながらず。

 

テレビで燃える気仙沼を映像で見て、会社のみんなで呆然とした覚えがあります。

誰もしゃべらず。

 

雪のちらつく中でアナウンサーが話している映像。

そして一緒に泊まった女の子たちはみんな僕が仙台の人間なのは知っていますから、声もかけられないといった感じでした。

 

翌日、朝起きたら女子軍団はみんな帰っており・・・笑

僕はその後、電車が大丈夫そうなので千葉の自宅に帰りましたが、冷蔵庫は全開で物は散乱。

ありとあらゆる物が床に落ちてました。

壁にも亀裂が。

 

家もとんでもない事になっていましたが、とりあえず車に食べ物と飲み物を大量に詰め込み、さらにマルエツで買おうとしたら、コメもパンも麺も野菜も何もなく、あるのは餅だけで。

棚に餅だけが2袋、無造作に転がっていて。

 

とにかく仙台に向かってみようとしましたが、すでに高速は止められておりましたので、下道を進みに進みます。

当時、車にあまりガソリンが入っていませんでした。

 

しかし給油するにも、千葉のガソリンスタンドにはガソリンが一切無くなる事態になっています。

それもそのはず千葉のコスモ石油が爆発事故に見舞われており、周りの工場群もすべて避難させられていたのです。

消防により人が対比させられているので全てが出荷が出来ない状態になっていました。

 

茨城あたりにてようやく給油できて、テレビをみた会社の上司から電話が入ったりして、『今僕も地元に向かっています』といったやり取りをしながら、北上しました。

 

夜になりようやく『福島県白河市』につくのですが、ここは片側一車線の道。

 

その時には後になってとっくに第一原発の爆発事故が起こっていたと知るのですが、当時は最初避難エリアを小さくいっていたのです。

 

もう夜です。

ずーっと先まで見渡せるような一直線の片側一車線の道の中でした。

真っ暗な中、車が大渋滞で全く車が進まずにどうしたら良いかと思案していた最中、ずーっとずーっと先の反対車線の福島方面から車のライトが『ぽつ・・・ぽつ・・・』とこっちに来たなと思ったら、そのうちに次々次々と、それはもうおびただしい大小さまざまの車がやってきたのです。

どかーっと車の波が急に押し寄せてきて、何かただ事じゃない事が起き始めたと予期出来るくらいの異常さでした。

それも一般の車両というよりも、『特別養護老人ホーム』とか『老人ホーム』の様な車が多いんです。

そのワゴンの中におじいちゃんおばあちゃんが満席になっていて。

それが周りのコンビニや空き地にテントを張り始めて。。。

コンビニも誘導したりして、駐車場にどんどん招き入れてましたね。

 

僕は『なんだなんだ』と。

 

後になって分かったのは、第一原発爆発したのでその後原発の避難エリアを拡大したんですね。

それで皆さん避難してきたのですが、ラジオが入らないエリアなので僕には何もわからないのです。

 

そうこうしているうちに当時付き合っていた仙台在住の彼女と連絡がつながり、その子が泣きながら『福島は危ないから千葉に戻って!』というのです。

泣いていてよくわからなかったのですが、その後に一番下の妹に連絡がつき、『みんな

無事だから今日は帰った方がいいと思う。』との事と、どう見ても進めそうにないので千葉へ帰りました。

 

それで白河まで来ていたのですが、家族が無事な事、彼女に連絡がついた事、これで僕はいったん千葉へ戻りました。

帰りも疲れ果てて、那須のビジネスホテルの駐車場で少し眠って、千葉へ戻りました。

 

 

これが土曜日の話で、その後の月曜日も普通に出社させられるんですけどね。。。

特に非常連絡網も何も無いので普通に出勤して。

電車も月曜は大丈夫でしたので。

 

 

そんな浦島太郎の東京での被災でした。

 

 

 

話は戻して気仙沼です。

行った日がたまたま11日という事もあり、『月命日』という事で『語り部さん』がいるという貴重な日でありました。

ピンクのカバンを持った高校生の女性が語り部さんです。

 

立派な高校生の語り部さんの見事なご案内でした。

それはもう立派な語り部さんで、被災後の校舎を回りながら説明してもらい、私含めて皆さん聞き入っておりました。

当時はまだ小さかったと言います。

 

映像も拝見し、真新しくなった伝承館の周り。。。

 

それはもう心苦しいものでした。

 

 

ご覧になられた事が無い方はぜひ『月命日』に伺う事をお勧めします。

やはりただ見るのとは違いますね。

 

 

 

今回の話はこれにて。

 

それでは。